昭和43年8月15日朝の御理解

御理解 第84節
「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛ではないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」



どうぞ、繁盛のおかげを頂いてくれと、しかも、その頂いたおかげが、ね。また、元の木阿弥にならないように、いよいよ、今年よりも来年、来年よりもまた次の年というように、んー、いわゆる、家繁盛、子孫繁盛のおかげを頂いてくれよというような願いが、この、御理解の中に込められておるものを感じるんですね。どうぞ、おかげを受けてくれよというだけではなくて、そのおかげが、ね。段々、いわゆる、年々、再々、繁盛していくという事を願うておられる。そのためには、こうあれと、こう言うてあるように思うですね。ね。細うても、んー、踏み広げて通れと、ね。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのが繁盛である。これがそれなんですね。道に草を生やすようなことをすなと。せっかくのその、頂いたおかげの道に、草を生やすようなことがあってはならぬと。ね。また、長う続かなければ繁盛ではないと、こう言うておられる。ね。例えば、百万円の宝くじ、百万円て、今頃はもっと大きいでしょうけど、宝くじが当たったような、あー、繁盛ではいけないのだと。ね。これは、えー、その前の、うー、八十三節を頂いても、おー、そうありますね。一年に分限者になるような心になるな。と仰る。先は長いぞ。一文二文とためたのは、みてることはないが、一時伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞと。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気になれとこう仰っておる。ね。これは、あの、一遍に金持ちになるなというよおうに感じているけど、そうじゃないですよね。こちらが、そういう気になるなと仰る。いわゆる、百万円の宝くじが当たるように、苦労もせずに、そういうような事を願うような心ではいけないということである。ね。第一、その宝くじを買おうというようなその心掛けが、もう、肝心に、もう神様の機感に叶わんのである。ね。ぬれ手で粟の掴み取りの気になっとるから。もう、そんなことだったら、絶対、そんな気持ちのある間はおかげ受けんです。ね。それが、八十四節にあるように、ね。細うても長う続かねばと、繁盛ではないというような、繁盛、長う続く繁盛のおかげを下さりたいという願いがあるから、おかげ下さらんのです。私共も、ほんとに金に追われたときには、あー、それこそ、それをいつも心の中に思いました。はー、ここにほんとに、もう、何万円でも良いがなと。ね。本当に、百万円の宝くじに当たる、当たったならというような思いを持っておりましたけれども、そういう思いのある間は、決しておかげは下さらなかった。ね。それこそ、その日その日が立ち行けば楽じゃと仰る。その、その日その日が立ち行くことが有難いと、分からせて頂くようになった、ね。もう、本当に、神様が下さる、うー、おかげ。もうそれで十分の有難さというものを感じれれるようにならせて頂いたら、どうでしたでしょうかねえ。えー、椛目で、人が助かるようになりましてから、一年足らずの間に、どうでも、まあ、私共が、十年、二十年今のような調子で働いたって、利払いどんしか出来んというぐらい大きな借金が、一年足らずで支払うてしまうことが出来ました。ね。それと同じに、やはり、去年よりも今年、今年よりも来年というようにです、あの、椛目の、いわば繁盛振りというものを、皆さんが思われたらいいです。もう、それからというものは、ほんとに、百万円の宝くじの当たったごつ段じゃなかった、それが続いた、ずーっと。ね。ですから、そういう一つの、おー、まあ、言うなら、基礎的なですね、ぬれ手で粟のつかみ取りになるような心が、すっきり取れてしまって、その日その日が立ち行きゃ楽じゃと、有難いというような心がしっかり出来させて頂いたら、神様がね、繁盛させて下さろうとする働きを、次々とおかげを頂いて、ね。言うなら、現在のようなおかげにもなってきておる。だからね、金光様の信心しよりゃね、大きな財産家になれんということじゃない。自分が、そういう気になるなとこう仰る。自分が、ぬれ手で粟のつかみ取りの気になるなと。百万円の宝くじでも買おうかというごたる根性は捨てれて。ね。
色んな理屈をつけましてね、ここに、ガバッとこう、百万円の宝くじでも当たったら、自分のものにしようとは思わん。その半分ぐらいは神様にお供えするて、てな理屈をつけてから、その、ぬれ手で粟のつかみ取りのような心を起す。神様が、そげな金、目くそのようなくされ金に、その、目を付けなさるはずがないです。ね。そらまあ、百万の宝くじじゃなかってもです、ね。それでも、大繁盛の大みかげを頂きたい。ね。そして、もう、ほんとに、誰にも負けんような御用が、どんどん出来るようなおかげを頂きたい。私共は、そういう夢を随分長く持ち続けましたね。けれども、そういうような根性では、おかげは受けられませんでした。ね。なるほど、御用も出来よるばってん、自分も、おかげ頂きたいという願いがあるのです。ね。細うても、長う続かねばと、ね。今月今日の中にです、ね。今月今日の中に、もう、これで結構と言う意味じゃないですよ。ね。今月今日の中に、神様の、このようなおかげを受けておるという事。今月これが立っていっておるという事が有難いという事を、本当に心の底から分らせて頂く信心がです。ね。ずーっと、これが続かせて貰う、ね。ちょっとした、誘惑ぐらいにゃ、決して乗らない。金は、それこそ、一夜のうちに千両の夢をあの、掴むような、例えばですよね。その、金儲けがあるが、一口乗らんのと言ったような話にですね、耳を傾けるような事ではならん、迷わない。おかげを下さるのは神様。もう、神様が、いよいよ、下さる段にならなければね、そういうものでなからなければ、財産にゃならん。ね。そういう意味でです、人より一年遅れて、分限者になるような気になれと、こう、ね。これは、一年といって、年限きったってならん。これはね、どういう事かと言うとですね。もう、全然その、分限者に、分限者にならんでも良いということですよ。今日今日が、このように立ち入っておりゃ、もうそれで、十分信心の有難さ、神様の有難さを分からせてもらうということ。ね。そこの信心が、細うても、長う続いていくうちにです、ね。ほんとのものが出来てくるのです。
私は、今日は、その、御理解八十四節を頂きましてね。大体、どういうような、これは御理解を頂けるだろうかと、頂くのだろうかと、こう思ったんですよね。もう、この通りだから、別に、どういう風に理解できる、んー、おごりがましいことを、おー、するなとか。細うても、長う続かねば繁盛ではないと。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは、繁盛じゃと。道に草を生やすような事をすなと。いうなら、今、私が、皆さんに聞いてもらったようなこと、そこなんです。ね。今月今日が立ち入っておれば有難い、と言うような道には、草は生えないです。ね。今月今日がたっていっておるという事が、有難いというというところへは、もう草の生えようがない。ね。そういう信心がですね、こう続けられていきよればね。それが、いよいよ、本当の繁盛につながっていくのだと言う事ですけれども、あー、今日あの、何ですかね、あー、ジャッキていうですか、あの、荷造りなんかをする時に、こう上からこう、絞めてね。あー、荷造りをする時に、こう絞めて荷造りをする機械があるでしょうが、ね。何ちいうですかね、丁度ね、あの、むしろなんかを荷造りする時にも、あんなにされるんじゃないだろうか。中に、米俵の筵が、中にこうあってね、それを上から、ぎゅーっと、こう、絞めよるわけですよね。確かに、荷造りをする時に、あんなふうにしてするとじゃないだろうかと、私は、まあ、思ったんですけれどもね。そのー、お互いがね、もう、ほんとにあの、神様に、この、締め上げられておるとき、ね。その、締め上げられておるという事に、苦しさを感じんで、有難いと分るような信心。ね。いわば、引き締められるというのである。ははー、こういうようなところを通らせて頂いて、初めて、本当の繁盛に繋がるんだなあと、私は思うた。なるほど、これならば、おそらく、道に草を生やすようなことをせんようになるだろう。締め上げられて、きちっとした荷造りが出来る。あれが、人間の力でですね。こうやって、いわえたものやらは、一時しよると、何とはなしに緩んでくるでしょうが。ね。荷造りが緩んでくるです。緩んでくるところから、道に草を生やすようなことになるのですよ。ね。ですから、今こそ、みなさんはね。自分の力でじゃない、神様の、いわばその、ジャッキにかけられてです、いわば、きちっとした、荷造りをして頂きよる、ね。狂わないように。ね。例え、どのような広い道が頂けるようになっても、その道を、草を生やさんですむように、おかげを頂かせてもらう。
お徳を受けて、もう、ほんとに大変なおかげを受けられた先輩達の、おー、信心を思うて見るとそうですね。まあ、それはそれはもう、大変な厳しいことであった。ね。ん、んん、甘木の初代のおー、安武先生なんかは、えー、一円の金を、自分が使うときには、それこそ、百円の金を使うごたる、緊張さで使われたということですね。そん、一円の金でもです、本当言うたら、神様すみません。もうそれこそ、検討に検討を加えて、果たしてこれを使うて良いか悪いかと、それこそ、検討されたんであるとこう思うんですね。そして、百円の金を使う時には、神様の前にです、神様の前に、百円の金を使うときには、一円の金を出すときのような思いで使うたと仰っておられる。それは、言うたら、あの表現であって、一円の金を使う時のようなという事すらがなかっただろうと思うですね、神様の前にお使いなさる時には。けども、言葉には、そういう風に言うておられますけども、それこそ、神様の前には、一円も百円もない。もう、全てがあなたの御ものだという、ま、その、ご信心が出来ておられた事と、私は思うのですけどもです、ね。これは、教えられるときに、そういう言葉を使われただけのことである。自分が使うときには、一円の金でも、それこそ、百円の金を使うごたる謙虚さで使われた。なぜ、それが出けたかというとですね、もう、ほんとにあの、けちな方じゃっただろうという感じもするけれどもですね。ねえ、例えば、タオルでもきつうは絞られんという。ね。下駄でも、たとえば、がらりけったらごたるふうに、ふみ、履き替えなさる。枯れ枝一本でん落ちとったら、拾うて帰ってきなさる。ね。よっぽど、けちなお方じゃったじゃろだいと、ふっふふ、いかんこつですけどね、そうしなければおられなかったのですねえ。どんなに広い道が開けてきても、草を、それこそ、一本の草でも生やすことを許されなかった。これはもう、弟子達にもそれを教えられとる。それが、何故そういう風に出来られたかというとその、永い間です、ね。もう、引き締められておったからなんです。いわゆる、きちっと荷造りが出来ておったからなんです。それも人間の力じゃない、神様のおかげで、きちっと荷造りが出来ておったから、ね。何十年という、永い信心生活の中に、ね。狂われたことがなかった。緩まれたことがなかったという事になるのです。これは、久留米の石橋先生の場合だってそうですね。奥様が、里歩きをされるのに、昔はその、あー、髪を結うていったんですね。まあ、十銭か、十五銭かの髪結い賃だっただろうと思うけれども、その髪結い賃をもらわれるのにね、一日がかりで貰うておられるですねえ。如何にその、親先生が、十銭の金でもですね、使うときに、機嫌悪い顔しておられたか。お広前に出られる、もう、里帰りをされるのですけど、もう気が気でない。お広前に出られるたんびに、先生の顔色が、その、言い出しきんなされじゃったと。ね。頭でん結うちこつがいろかと、一遍にいわれたら大変と思われたんです。私のほうも、家内が、もうほんとに、私は、ボーっとしとるつもりはないけれどもです、もう、とにかく頂きにくいというんですね。先生、お金ということは言いにくい。ね。必要なものは、何ぼでも、神様に出していただくぞと、言うてあるのだけれどもです、ね。そこがですね、あの、緩んじゃならんという気持ちが、私の気持ちにあるからなんです、やっぱり。これは、まあ、余談ですけれどもね。そういう段々、こちらが気持ちでおりますと、こちらが、例えば、緩んでおっても、緩まない、その、そういうお繰り合わせが、そこへ頂けるようですね。先日、御本部参拝の帰りに、永田先生を、直ぐ、萩のきわまで送りましたから、夜中ですが、萩の、おー、何とかと言う、湯元温泉かね、あそこへ、やすま、あの、泊まらせて頂いて、そして、萩焼のあるところですから、あの、窯元をですね、めぐりを致しまして、そん時に、私その、あれを、これもいいね、これはもう、自分が使うわけじゃないけれども、客人に使う灰皿とか、あー、なん、一、二点これを買った。ね。はー、もうほんとに、えー、先生は、自分の金で買うた事なかてんなんてん言いなさるけども、は、やっぱ買いござると、みんなが思うたじゃろと思うんです。ね。しかも、灰皿いっちょが三千五百円もする。ね。それから、帰りがけ、帰りに、えー、小倉ですかね、ぼうげん荘という、山の上に、えー、ホテルがあって、そこで、昼食をさせていただいた。そこをこう、丁度、デパートのように、いっぱい店が出してありますからね、そこでも私が、あー、千三百円かする人形を私が買おうとした。私もう、人形買おうと言うた事は初めてです。それがね、丁度、今度の御本部参拝にさせていただいて、あの、私の心境をそのまま表現したような人形だったんです。もう、可愛らしいその、あー、子供の人形ですけれどもね。子供の着物に、はっきりとこう、亀前模様が入っておる。で、その人形が、上を向いて、こんなにしておるような、とても可愛らしい人形である。あー、繁雄さん、あれを買うといてくださいと、て、言われたけん繁雄さん、買いに行ったんですよ。ところがなんとですね、袖のここんところが、ヒビが入ってますんですね。それで、ところが人形一点しかないのです。ならそれば、まあ、半額なら半額で、そんなら剃れば貰うておってくれと言うたところが、その、向こうでは、返品するから返さないというわけなんです。ね。そういう時にです、ほんとに神様の、まあ、良い意味、悪い意味合いにおいての、ご守護の中にあるということを感ずるです。ね。いわば、おかげで買わんですんだ。ね。また、帰ってまいりましたら、あー、久富さんに、お金が一つもへっとりませんもん。あれ、こらどうして、あの、おー、灰皿のお金はこら、払ってないなら、払っといて下さいと言うてから申しました。で、あら、菊栄会の方たちが、あれはあの、先生、お土産にと言ってから、してありますからとこういう訳なんです。結局、私が買わんですんでおるおかげである。ね。これはあの、伊万里じゃなかった、あの、有田の源衛門窯を見たときも、そういうけんでした。洋間にあの、私の紋所の茶碗がね、あれは大変高いものなんです。けども、あちらで私が、あの、源衛門さんに私の紋を焼いてもらうように頼んだ、それで、あの出来上がってきたから、ところが、丁度、竹内先生がご一緒にご案内して下さった時、いいやあれは私がお金払っておきましたからて、まるきりその、ね、買わせようとかね、そういう意味じゃないけれども、あの、そういうことの中に、如何に、神様が厳しゅう、私が、心がちょっと緩みよると、緩まんですむような働きを、そこへ見せておって下さるといったような事を感じるんです。ね。それでも、こうやって、与えておって下さるんですけれどもですね。だから、段々お互いがおかげ頂くようになってから、夢見よったら、かみさまから、ポットこうお気付けでも頂けるくらいなものを頂いてからでなからなければ、本当のおかげは頂かれんと、私は思います。ね。そのためには、今、本気で一つ引き締められておかねばいけません。ね。本当に、今月今日、いわば、言うならば、その日暮らしの中にでもです、本当に、有難いという、信心を、今こそ、しっかり頂いておかねばならないと。ね。そして、よし、どのようなおかげを頂いてもです、どのような大きな広い道、一日を、ね。その日暮らしではなくてです、もう、一生、ね。食べても食べきらんというような財産を築くようになってもです、ね。そういう大きな道にでも、草を生やさんですむ、いや、そこに草が生えよったら、神様が直ぐ、ほい、そこに草が生えとるじゃないか、さ、取れよと言うて下さるような働きが、こういう風に感じられ、いただけれるようになるおかげを頂かにゃいけんという事なんです。ね。ですから、お互いが、今、引き締められておるとき、今こそきちっとした荷造りを、人間の力じゃない、神様の力でして頂きよる時をです、知らにゃいけん。ね。引き締められておる、それは、窮屈な、きちっとした形の中に、押し込まれるのですから、窮屈なことは窮屈なんです。苦しいことは苦しい。けれども、ここにきちっと荷造りが出来てしまうとです、このような、いわば、有り難いことはない。
先日、うー、この、あー、銚子という教会ですね、あの、利根川、あー、のその、あるところはね。そのー、たいへん、侠客の人の偉い人たちが出たんです。笹川繁蔵なんかの、ね。えー、の、あれです、ですからその、気分がそういう侠客気分だそうですね。非常に遊びごとが、そして、もう、金光様の先生達がみんなもう、麻雀やら花札やら、せんことはないのです。会合があった後は、もう、麻雀やら花札をする、金光様の先生達が。だからもう、これではとても、その、ゴヒレイが立つはずがない。県下に、五つか六つしか教会がない。だから、こっちあたりが、教会を少し、その、お弟子さんが出来られたらやって下さいという訳なんですね。飯塚のお客さんです。ね。まあその、十四年間、布教に出られてからの、色んな話を聞かせて頂いて、ま、どうにも出来ないところへ行き詰って、あの、昨日は見えられて、昨日の朝のご理解は、まるきり、あの方のための御理解のような御理解でしたんですけどね。あの御理解はもう、たいへんな御理解ですよ。ですから皆さん、やっぱり頂かねばいけません、まあ一遍。ね。そん時でしたがあの、んー、古賀先生が親方弟子になるわけです。東飯塚のお弟子さんですから。ですから、あの、古賀先生が導いてきたんですけども、そん時でしたあの、ほんとにあの、私共が、あー、椛目の時代、二年間、ここへ修行させて頂いて、その時のその、もう、先生が無理なことばっかり言うというふうに思うておったけれどもです。今こそ、それがようわかると言うて話しているんですね。いわゆる、あの時分の、あの時分にです、自分がこう、引き締められておったということです。ね。それがね、今、現在、飯塚の教会にあってもですね、もう、それがどのくらい、おかげを頂くか分からんと、その引き締められておったという事なんです。いわゆる、崩さんですむというわけなんです。ね。本当にあの、親先生のお話を、いつも思い出すのですけれどもと言って、あの、きつい時には、紋付袴をつけるとですね、身体がちゃんとするというですよ。あの、弱い身体がですよね。紋付袴をつけると、身体がちゃんとする。ね。乱してはならん、乱してはならん。紋付袴着けて、ちゃっと足袋を履いて、夏でも、ね。それがですね。例えば、身体がきついときに、さあ、長うなるよりか、紋付袴を着けたほううが楽になる。これは、私共でもそうです。ね。親先生が、一番初め、神様との間に交わされた事はですね、えー、私がおるところが御結界、ね。ランニングシャツ一枚でも、寝巻き一枚でも、ね。お取次ぎが出来る。お取次ぎとは、そげん難しいものじゃない。必ず、紋付袴着て、座らんならんちいうことはなか。もう、私がおるところが、御結界だからもう、寝床には寝床が御結界。ね。ランニングシャツ一枚でおりゃ、ランニングシャツ一枚でお取次ぎが出来るんだと言うて、神様、まあ言うなら、私が、だまくらかしておるような感じです。ね。そういう中から、さあ、足袋を履け、袴をはけ、と言わんばかりに、そういうものを集めてくださる。ね。そして、そのころにはです、しゃんとしなければおられないような問題が、こうやって出来ておるもんだけん、もう本当に、それをさせていただくようにならせて頂いたら、なるほど、ランニングシャツ一枚で御祈念をするよりも、紋付袴をつけたほうが有難いことが分かってきた。ね。引き締められながら、それが、一つの形というものが出来てきたわけなんですよ。ね。
先日、教祖の、あの、教祖の、あの全部の中から、あー、お話を頂いたんですけどもと言うて話しておりましたが、教祖様はですね、初めの間は、神様はね、あの、御結界では胡坐をかいてよいと仰ったそうですね。だから、教祖様もですね、あの、立教神伝にある、ああいう風に、まあ、素晴らしいことで、ま、お受けになられたんですけれどもです、お受けになるときにも、神様の色んな柔らかい条件に、ある意味合いで乗られたという感じもします。ね。厳しいことは、決して仰っておられないということ。ね。いわゆる、胡坐をかいても良いと、御結界の中で胡坐をかいて座っとっても良いと仰る。それが、段々、厳しいことになっておい出られたということがですね。親先生の初めのころのあれと同じようなものを感じる。また、私が、椛目時代に頂いた、その引き締められておったという事が良く分かるという話をしておりましたがね。神様の御神縁というものがですね、そこ辺にあることを、私は、感じます。ね。いよいよ、広い道に出ましても、ね。草を生やさんですむ、いや、一本の草が生えたら、もう直ぐ取って下さる。例えば、私が、その先日の買い物の例は、一本の草が生えたら、もう神様がとって下さっておる、いや、さあ取れよと言うて下さっておるものを、その中から、私感じるです。ね。ですから、おごりがましいような気持ちがですね、おごりがましい気持ちが、引き締められておるのにもかかわらず、あるような事では、もう、いよいよ、おかげは受けられません。いわゆる、楽はぜんぞという気に、ならせて貰わなければいかんという事。ね。そして、楽はさせて貰うものだ。ね。私共は、ですから、ここに引き締められておるということはです、そう言う人一倍の、例えていうならばです、まあ、分かりやすくいうならばです、ね。お金でも、湯水のように使うた時があるんだと。ね。お金なら、お金の有難さなんかを、全然感じなかった時代があるんだと。それを、当たり前のごとのようにしてして来た事があるんだと。天地に対する、そういう、お粗末御無礼を積んで来てるんだ。ね。だからこそ、そこんところが、詫びて詫びて詫び抜かれる信心。そして、例えよし、今度、どういうおかげを受けさせて頂いても、道に草は生やすようなことは致しませんというような信心がです。出来てくるということが、ね。だから、引き締めら杖にも、引き締められていくのです。それが分かるまでは。ね。して、その引き締められるということが、どんなに有難いことかという事が分かる。ね。はー、一日、例えば、ほんなら、百円なら百円以上使われん。窮屈なことなんだ。けれども、その中にです、限りない神様のおかげを感じるようにならせて貰うということ。窮屈ななかに、例えて、畳半畳の中に、ね。世界が和賀心の中にあるようなおかげを頂かせて貰うて初めて、なんと言うても、御結界が一番有難いとこだと分かっておるのと同じように、私が分かってきておるようにです、皆さんも、現在の、窮屈な中から、はよう出たい。はよう、ほんにここに、ぬれ手で粟の掴み取りのおかげを頂きたいというようなです、根性やら、気持ち、そう言うさもしい根性が、信心の上で言う、さもしい心があったんではね。もう、金輪際、おかげは受けられん。本当のおかげは開けてこん。神様にお願いしてから、百万円の宝くじでん何でん買うという人がある、ここにはおりません。ね。そういうことで、おかげは受けられる筈はないという事をですね。一つひとつ分かっていただきたいと思うんです。ね。そして、現在の細い道の中にです、ね。それこそ、一本の草も生やす段じゃなか。いわゆる、それはどういう事かと言うと、今月今日の立ち行いておるということが有難いという事なんです。ね。それが、段々、こう広がってくると、緩やかに緩んでくるから、神様が、ね。緩まんですむように、今、ジャッキを持ってですね。あの、ジャッキで締め上げるようにして、荷造りというか、本当のおかげの頂けれる体制というものを、整えさせて下さってあるんだと、悟らせて貰うてですね、その、引き締められるなかに、一つ、有難いものを分からせてもらう信心。そして、どういう大きく踏み広げていくようなおかげを頂かせてもらっても、ね。道(草)を生やすようなことのないだけの信心を頂かせて貰うて、そこにですね、いわゆる、いよいよ、長う続かなければ繁盛ではないというのは、本当の繁盛では、ね。ない繁盛では駄目だという事。本当の繁盛というのは、ね。その細い道を、その信心を持って、踏み広げていくような信心が、踏み広げておるような信心。ね。踏み広げとるような繁盛なんです。それでなからなければ、教祖は、繁盛ではないと仰っておられる。そこが分からずに頂いたおかげでは、繁盛じゃない。そこが分かっていただく繁盛であって、それが本当の繁盛であるという事を言うておられる。ね。だから、皆さん、本当の繁盛を願わねばならん。それには、現在の中に、草一本生やす段のことではない信心。いわゆる、今月今日、立ち行きおるということが、真に、勿体ないことである、有難いことであるという信心。ね。こういう中にあって、夕べの御理解の中にもあったように、こういう難儀の中にあっても、ね。そら、引き締められたときには苦しい、ね。けれども、その次の瞬間にはです、本当に、こういうなかにあっても、信心を頂いておるということが、何という有難いことじゃろうかという事。次の瞬間ではなくても、とにかく、どうにもこうにも出来ない、その中にあっても、とにかく、もう一遍、お参りさせて頂いて、親先生のお取次ぎを頂く。昨日も、ある方が、もうこれは先生おかげということは分かってますというの。昨日、頂いておるから。けれども苦しいんだと。そら、親先生に一遍聞いてもらわにゃという。ね。聞きながら、私も、本当に、笑いにごまかして、高笑いしましたけれども、あれは、私は、本当に、声上げて泣きたいごたる思いでした、私自身。そりゃーね、そげんときゃきつかっ。ね。けれどもね、それがやはり、あんたが分かっておるように、それが、今こそ力を頂い ておる。今こそ徳を受けておる時なんですよね。ね。さあ、お取次ぎを頂いて、御理解の一つでも頂いて帰ると、もう、スッキリする。そういう時にです、ね。次の瞬間には、信心、こういう中に、信心をいただいて、お取次ぎを頂かせていただいて、こういう、安心というか、喜びが頂かれるということは、何と有り難いことであろうかと言う信心が、本当に出来ていかなければならん。ね。いわゆる、今月今日、これでもう、立ち入っておるという事をです、ね。有難いという信心。ね。そこに、おごりがましい心などの出ようはずがない。ね。おごりがましい事をしたからといって、決して幸せじゃないです。おごりがましいことをする人は、どれだけ、おごりがましい事をしても限りがないです。本当ですよ。ね。ですから、現在の中にです、ね。現在の中に、本当に、有難いものを頂かせて貰うて、初めて本当の幸せということはあるのですからね。それを一つ、本当に分からにゃいけません。ね。お互いがですね、本当の繁盛を願うならば、ここんところを、しっかり一つ、分からねばいかんです。ね。本当の繁盛、それはね、決して崩れない。ね。しかも、踏み広げて通る。もう、今年よりも来年と、必ず広がっていくおかげ。そうでなからなければ、教祖は、本当の繁盛じゃないと仰っておられる。ね。だから、本当の繁盛のおかげを頂かせていただくための信心を、合楽全体が、ね。今こそ、身に付けて行かなければならないのじゃなかろうかと、こう思うのですよね。どうぞ。

中村良一
2005年4月24日